第22回:『ありがとう、トニ・エルドマン』 マーレン・アデ監督 2016年


 ヴィンフリートは、娘のイネスのことが心配で、仕事を休んでドイツからルーマニアまでイネスの様子を見に行きます。イネスは仕事が忙しくて、父親にいちいち構っていられません。この時点では、まともなのは、観客の目には父親のほうです。イネスは無理を重ねて、ちょっとブラックなグローバル企業の「社畜」として、プライベートな時間もあまり持てないまま生活しているんですから。もちろん、彼女も食べていかなければいけないからしょうがないんですけど。ヴィンフリートは、イネスの心配をしながらも、その場はいったん引き下がるしかないのです。

 しかししばらくして、ヴィンフリートが変なカツラをかぶり、「トニ・エルドマン」と名乗ってイネスの女子会に現れてから話が変わってきます。奇矯なキャラに扮したヴィンフリートは、その後もイネスに付きまといます。仕事のためとはいえ、イネスのように自分を押し殺して生きるというのは、あまり幸せな人生ではないのだとヴィンフリートは思っているんですね。それで、イネスにそれを分かってもらうために、まず模範を示したつもりなのです。ごく普通の人物たちの中に、「トニ・エルドマン」という異物が突然混入する反動で、観客はつい笑ってしまう。ヴィンフリートに感化されたのか、最初は真面目だったイネスがだんだん「キレて」いく様は、もっと笑えます。ただ、いくら「キレて」も、労働から解放されるわけではありませんけれども。

 日本でも、ブラックな職場で奴隷みたいに働かされた挙句、心身を病んだり、自殺したりする人があとを絶ちませんが、ヨーロッパでも同じようなことで悩んでいる人が当然いるわけですね。ヨーロッパでも日本でも、多くの人々が劣悪な労働環境のもとで疲弊しきっているのです。だからといって、何の抵抗もせずに奴隷の身分に甘んじていることはありません。もし仕事がキツくなったら、とりあえず有給休暇(あればですが)を全部使って家でゴロゴロしていましょう。背徳感はあるでしょうけど、それもひとつの抵抗です(私が以前それをやった時は、誰が何日有休を使ったかという嫌がらせみたいな回覧が回ってきて、上司に散々嫌味を言われましたけどね)。

 仕事にやりがいがあって、体に影響がなければいうことはありません。でも、そうじゃない多くの人が、キツい仕事をなんとかこなして、少しでも幸せになるにはどうしたらいいのかというのが、この映画の発する問いなのです。経験が豊富ではない私が、それに答えるのは難しいですけど(少しでも抵抗しようというくらいです)、自分を見失っているうちにも、時間は過ぎていくんだというヴィンフリートの忠告は、頭の片隅にとどめておこうと思います。


村木豊
(2017年8月14日掲載)



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