第20回:『殺人に関する短いフィルム』 クシシュトフ・キェシロフスキ監督 1987年


 ポーランドの巨匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督の衝撃作。殺人を犯した人間を主人公にした映画や文学作品はたくさんあると思いますが、なかでもこの作品はちょっとゾッとします。

 多分、友達も彼女もいない孤独な若者ヤツェクは、ただ、ぶらぶら街を徘徊しては、犯罪まがいのことを繰り返しています。陸橋から石を落としたり、ハトの群れを蹴散らしたり、公衆便所で人を突き倒したりします。そのすべてに明確な理由がありません。楽しんでやっているということでもなさそうです。なぜそんなことをするのか。それは分かりません。強いていうなら「愚かだから」でしょうか。子供のまま大人になってしまったような人物なのです。

 ある時、ヤツェクは唐突に人を殺します。殺した相手に恨みがあるというのなら分かります。あるいは何かの口封じとか。しかしそうでもないみたいです。顔見知りですらないのです。では、人を殺すことに快感を覚えているのかというと、そういう感じでもありません。殺した相手から奪った車で女性とドライブに行こうとするのですが、それにしたって、殺した後で思いついたのかもしれません。たとえ、事前に思いついたのだとしても、そんなもの、普通、人を殺してまでやることではありません。要するに、何の理由もなく殺したのです。理由もなく犯罪まがいのことを繰り返していたのは伏線だったのです。

 この殺人は、観ている側に「嫌なシンパシー」を抱かせます。例えば私が、ただ理由もなくイライラしていた若者時代に、ヤツェクのような行動に出なかったのは、たまたまヤツェクより少し成長していて、その分愚かではなかっただけのような気もします。もしヤツェクが、はっきりした理由があって殺人に至るのであれば分かりやすい。しかし、ヤツェクの殺人には理由がないから、観ている私にとっても、自分はそんなことはしなかったはずだとはっきり否定する材料に欠けるのです。それどころか、理由もなく残酷だった子供の頃を思い出し、「分かる」気さえします。もしかしたら自分も、ヤツェクのように成長が止まっていたら、「塀の向こう側」へ落ちていたクチなんじゃないかと思って、ゾッとするのです。それが「嫌なシンパシー」です。キェシロフスキはそうやって、このゾッとする世界に、観る側を巻き込もうとしているかのようです。

 とはいえヤツェクも、好きで孤独に街を徘徊していたわけではありません。その裏には過去の不運があったわけです。キェシロフスキは、最後まで無批判にヤツェクを見守り続けます。それは、愚かで不運なヤツェクに対する、キェシロフスキのせめてもの同情なのでしょう。


村木豊
(2017年7月31日掲載)



戻る

当ウェブサイトに掲載されている記事や画像の無断転載・転用を固く禁じます。
Operated by 株式会社池田企画